2014/8/29 JazzSpot「DOLPHY」2Days 2日目  

ワクワクする疾走感

今、僕はこうしてここで生きているけれど、いつこの生が始まったのかという記憶は無くなっているし、死んでしまった後では生はないのだから、死を記憶することも無いだろう。頭では始まりと終わりがあるとは解っているけれど、心情的には、一回性の生に投げ込まれて、あたふたしている。そんな大きな話を持ち出さなくても、僕にとって一日の始まりはぼんやりしているし、寝る瞬間というのも定かではない。他の人にとっても、きっと恋愛は一目惚れでない限り、いつ始まって、いつ終わったか、ということは定かではないだろうと思う。何かしら充実していた事は記憶に残り、それを頼りに、また新たな一回性に投げ込まれて、起きたから動きだすのであり、落ちたからあがき続けるのだろう。2014_8_29

fuseの曲には「始まりも終わりも無い」と、感じる。だから、いつの間にか曲に投げ込まれていて、fuseが疾走する時、こちらもいつの間にか疾走している。目の前に広がっているのはワクワクするようなハプニングの連続。メンバー全員、面白いことを仕掛けたくてうずうずしているように見える、というか、起こってしまいそうな演奏が繰り広げられる。起こってしまったことは、何とかしてしまう息の合い方。画家の即興を観ていて、なにやらおかしな線が描かれ、何だこれは、と観ていると、描画が進むにつれ、「ああ」と腑に落ちる感覚。こちらは音楽だから、一瞬で形にする。その反応の速さからくるスリリングと、形になった時の快感。そんなシーンの連続で、いつ聴いても新鮮であり、気がつけば次の曲に投げ込まれている。

 

最後の曲が終わり、疾風吹きやんだ後、渦巻いていたものが徐々に沈殿し始め記憶になってゆく。

そして数ヵ月後、その記憶が蠢き始め、みんなfuseのライブに行くのだろうと思う。

2014年8月29日 西村仁志